『見えざるものの王座』の終章は、成長に自動的に頭を垂れることをやめたあと、文明はいったい何を最上位に据えるのかという、もっとも根源的な問いを投げかける。この本の答えは、内なる進歩と呼ばれるもの――「人間の生のもっとも深い尺度は、外的な秩序のなかでどれほど高く昇るかではなく、知恵、思いやり、正義、責任、勇気、創造性、そして愛する力において、どれほど成長するかだ」という確信である。これに対置されるのが、私たちの時代が教え込まれてきたモデルだ。すなわち、「増大へと上向きに伸びる矢として想像された歴史――より大きな力、より速い速度、より多くの生産、より多くの消費」。有限の惑星の上で、「際限のない外的増大を、私は正気の未来像とは見なせない。『もっと』
『見えざるものの王座』は、告発で終わる本ではない。知覚をめぐる選択で終わる。未来へと視線を向けた終章で、この本は、人間を見る二つのあり方を対置する。ひとつは「予測可能な子ども」と呼ばれるもの。ダッシュボード上の色、予測、制度が管理できるプロフィールへと平板化された人間である。もうひとつは「可視の子ども」と呼ばれるもの。未完のままの現実をそのままに携えた存在として出会われる人、そして「いかなるシステムも完全には測定も予測もできない可能性を帯びた」担い手である。この違いは、教室の中だけの細事ではなく、文明の分岐点なのだと本書は論じる。「私たちが子どもを見ることをどう学ぶかは」と本書は記す。「のちに大人をどう見るかを決める。すなわち、減らすべき誤差として見るのか、出会うべき人生として見るのか。分類すべきデータ点として見るのか、
この旅を始めたとき、私は歴史を理解しようとしているのだと思っていた。本当は、ありふれた部屋を理解しようとしていたのだ。赤い印のついたページのある教室……
前章の終わりに、ひとつの問いが静かに、しかし執拗に残っていた。次に私たちは、ともに何を最も高い場所に据えるのか。私が…にたどり着くとき
歴史に属するには、あまりにも慎ましく見える夕べがある。私の思いに浮かぶのは、たそがれへと身を委ねてゆく細い通りだ。最後の用事を済ませる人影、ゴミ箱を引きずる音、隣家の壁越しに漏れてくる笑い声、屋根並みの上で、冷えつつある灰の色へと褪せてゆく空。…
ある冬の朝、私は心の中で、フィンランドの小さな町にある学校の門のそばに立っている自分を見出す…
前章で子どもたちの見えない傷について問いを重ねたあと、私はさらに根本的なことへと立ち返っている。学校はいかにして、目の前の子どもを見ることを学ぶのか……
前章が、その子どもをダッシュボード、プロフィール、警告スコアの時代へと追っていったのだとすれば、この章では同じ子どもをもうひとつ別の部屋へと追っていく。すなわち……
前章がラベルと期待の力に長く目を留めていたとすれば、本章は、それらの力がいましばしば集まる場所――子どもたちが来る前に教師が開く、あの光る画面――から始まる…
競争の文化がいかにして子どもに、自分を一つの製品へと作り変えることを教えるのかをたどったあとで、私はもう少し近づきたい。そうした広い圧力が期待や許可や限界へと翻訳される、その教室そのものへ……
もし能力主義がこの時代を支配する力のひとつになっているのだとすれば、その要求がもっとも深く感じられる場所のひとつが子ども時代である……